ごはんの種は蜜の味

二進も三進もいかないアラサーなオタク女の日々

活字中毒の基準が分からない

活字中毒と書くと「パッケージの成分表を熟読する人」と言う印象がある。

本だけでは飽き足らず、とにかく文章を読まずにはいられない人だと、自分の中では定義している。ググったところ、これでだいたい合っているようだ。

だが単純に文章を読むのが好きでたまらない人なのだと思ったら、中毒症状の場合は好きを越えてしまい、もはやただの執着になっているようだ。
酒で例を出すと、酒好きであれば問題はない。しかしアルコール中毒に至ると、アルコールがなければいらいらして周囲に当たり散らして、感情のコントロールができなくなってしまう。
活字中毒も同じように、行き過ぎる場合は「文章が常に読める状態でなければ落ち着かず、不安になったり、苛立ちが止まらなかったり、優先順位を誤ってしまったりする」と、明らかに日常生活に支障をきたす状態を示す。

つまり、コントロールができている状態では中毒ではなく、全く以て正常な「好き」の範疇なのだ。
だが、読書好きにとって活字中毒は、一種のステータスになっているようだ。
活字中毒だから」と言う言葉は、気軽に使われている印象にある。アルコール中毒、ニコチン中毒となると深刻度が増すにも関わらず、一見して体に悪くない、むしろ頭の良さや知識量の多さの裏付けとなるため、活字中毒はむしろ肯定されるきらいがある。

 

今回は、ステータスとしての活字中毒として思っていることを書きたい。

 

管理人は活字中毒ではない。ハッキリと断言できる。
本を読んでいないと落ち着かないことはない。落ち着かない時は、寝ることが多い。眠れない場合、手元に本があれば読むこともあるが、ただぼーっとしてネタ出しをしたり、今日の晩ご飯に想いを馳せたりしている。

むしろ自覚症状がある間は、活字中毒ではないと思っている。本当に困っている人は、自分が活字中毒であることを認めたがらない。

活字中毒がステータスになる理由の一つは、まず「自分は世間一般の人よりもたくさん文字を読んでいて、それを止められない」と言う、自認を伴う相対評価だ。だが「私はたくさん読んでいます!」と声を大にして言いふらすのは品がない。だから少しばかりの自虐を織り交ぜて、活字中毒──あまり褒められたことではないが、私はそれで満足なんだと主張しているのが実態だろう。

だが、本当に中毒症状に困っている人は、そもそも他人と比べることがない。自称活字中毒者と、本当の活字中毒者は根本的に違う。後者は「文字がないと精神の均衡を崩す」のである。文字がなくなった瞬間に、攻撃的になる、不安で押しつぶされそうになる、パニック症状を起こす……重度のアルコール中毒やニコチン中毒と、全く同じ状態になる。

自称活字中毒者に、そこまでの状態に陥る人は何割存在するだろうか。いや、いるかもしれないのだが、意外とそこまで重篤な症状は出ないのではないだろうか。

ただ、基本的に文字情報は世間に多く溢れている。酒や煙草のように買いに行き自らの手で摂取する手間をかけずとも、ふと視線を移動させただけで標識や看板があり、スマホを持っていれば簡単に活字と触れ合える。

特に日本は古くから識字率の高い国である。義務教育を終えれば基本的な文章は読める前提で、文章による注意書きや案内はいたるところに存在している。本も安価で手に入る。文字がなくて死ぬ、と言う事態は、意図的に文字を排除した空間に飛び込まない限りはほぼ起きないだろう。

そのような環境にいてなお、中毒と言う強い言葉を安易に使うのは、本当に文章に慣れ親しんだ人間ならば、些か軽率であると思い至るもの、と管理人は考えている。

言葉の持つ強さも理解しなければ、読書家として「知識を得るためだけに読む」に過ぎない。それも悪いことではないが、文章の持つ様々な側面の一つを追っているだけであり、ましてや中毒だと自称するほど文章を読み込んでいるとは、傍目には映らない。

 

本当の読書家は、中毒などと自虐しない。

純粋に、読むことが好きであり、殊更それを「他の人よりも読んでいる」と主張しない。彼らは相対評価で満足せず、常に絶対評価で、満ち足りることを知らない。「読書をしている」とは言うが、他の人と「量」を比べるなどナンセンスなのだ。

本が溢れている世界──特にこの日本は、出版不況と言えども、電子書籍も合わせれば毎月どころか毎日多種多様な図書が販売される。街に行けば文字の洪水だ。スマホやパソコンがあれば、いつでも文字に触れられる。

文字が尽きない。それは、知らない世界は常に存在していることでもある。読書家は、世界を探求することに必死だ。他人にわざわざマウントを取る必要もないし、時間も足りない。それが結果として、他人からは「謙虚」に見えているだけだ。
「中毒だから」と自称活字中毒者が自己満足で発信する間に、彼らはきっと何ページも先に進んで新しい世界に触れている。

 

ちなみに管理人は、読書家の領域にすら到達していない。