ごはんの種は蜜の味

二進も三進もいかないアラサーなオタク女の日々

バーチャルとリアルの境界線

バーチャルは架空。現実と違って匿名の世界だ。
インターネットはまさに、それを体現した世界──のはずだった。

 

 

 

※この記事は、管理人がただ思ったことをつれづれと書いているだけです※

 

 

 

 

私はアラサー女だ。
いわゆる漫画やゲームな好きな人としてのオタクであると、自覚したのは小学生の頃だ。
ただ親戚には漫画が好きな人が多く、末っ子扱いを受けていた私が漫画を読まないわけはなく。三歳ぐらいの頃の夢はシティーハンターだった

その夢は「シティーハンターは諸事情から無戸籍じゃないとなれない」→「戸籍がないと社会保障が受けられない」→「病院にかかると実費でお金が大変」と言う事実を知り、よく風邪をひいていた幼い私は、じゃあ公務員になりたい!と次第に夢を現実へシフトさせた。

なぜシティーハンターが無戸籍なのか。その本当の理由を理解できていなかった辺りが何とも幼く無垢で愛らしい(自己肯定)

 

それはともかくとして、だ。
周りの親戚達は、適齢期?には漫画を「卒業」してしまった。私だけが取り残されたのだ。そして卒業と言う概念すら失っている。

 

思春期がバリバリのオタクだった。
そんな私の思春期、世間ではインターネットなるものが爆速で広がっていった。コナン君がパラパラを踊っていた時代だよ。

とは言え関西の片田舎。家にパソコンがあるのは、親御さんがそういう仕事に就いているか、あるいは流行に敏感肌もびっくりするほどの刺激されっぷりなのか、その中でもさらに限られたご家庭だけだった。大変貴重な代物だったのだ。大抵は、家族が集合するリビングに設置されている印象が強い。

また当時、ネットはダイヤルアップ接続。使えば使うほど、料金が嵩む。深夜帯はテレホーダイ(一定料金制度)のサービスがあったものの、ネットは「現実によって制限された世界」だったのだ。

つまり、特別な世界だったのだ。その世界では、自分は自分でありながら、アバターやハンドルネームで、別人になることも可能だった。現実と切り離された異空間。ネットは、現実からの駆け込み寺、いや、今で言えば異世界転生をするようなものだった。

だがそれは、現実によって制限されていたからこそ、輝いて見えていたのだ。

 

パソコンは一家に一台から、一人一台の時代へ。
ネットも365日24時間繋ぎ放題、そして有線から無線LAN、公衆Wi-Fiの登場。
さらにパソコンはすでに古く、スマートフォンがもはやネットで繋がるデバイスの代表と言ってもいい時代になった。

もはや、ネットの世界と現実世界に境界はない。いつでもどこでも、簡単にリンクしている。この言い回しが、もはや使い古された表現になってしまうほどだ。

 

つまり、かつて現実と切り離された異空間は、もはや現実の世界と相違ないレベルまでになってしまったのだ。そこはもはや、現実からの逃げ場ではなく、紛れもない現実と陸続きの世界なのだ。

確かに今も、ハンドルネーム文化による匿名性はそれなりに保たれている。
しかし同時に、その匿名性を覆す行為も増えてきた。「特定行為」と呼ばれるものが、昔に比べて断然楽になっている背景もあるし、何より数に物を言わせる「圧力」も増えた。しかも、現実世界ではそれぞれ点と点で繋がりもしない「数」の人々が、容易に「ネット」と言う線で繋がるため、むしろ現実よりも力は強くなる。

ポイントは「容易」だ。つまり、誰でもできるレベルにまでなってきた。それまでは根気と時間、専門知識が必要だったことが、今は指一つでもできる。使う・使わないはもはや本人の気持ち次第。

 

現実世界では繋がりようのない点と点が、ネットで線が繋がる。
数十年前までは夢の世界だ。だが、夢が叶うことは、それが現実になることでもある。
現実ではなく夢を追う。よくあるパターンだが、ふと、夢が現実になった時にどうなるのか。──当たり前のことなのに、意外とその因果に気づいていない人も多いのではないか。

 

バーチャルのはずだったインターネットの世界は、今は現実(リアル)の世界。
ネットにバーチャル(架空、夢)を見ていた人々は、次はどこへ行けばいいのだろう。

 

 

 

 

 

 

思うに、このインターネットが現実から切り離された異空間だ、と言う感覚がある世代と、ネットも現実の世界だと言う感覚がある世代では、90年代ごろの、近未来を扱った作品の捉え方が全然違う気がするんだなぁ…解釈と言うより、感覚が。

攻殻機動隊』とかは、まさに90年代にインターネットに触れて育った世代の感覚だと思う次第。もちろん、ファンの全てがそうだとは限らないのだけど。

 

なんともオチのない話でしたので、カテゴリは雑記とします。